江のいろ

長江は深く、空の色を移したような濃い青をしている。
だが江の辺の薄暗い荒ら屋に座る男の瞳に、その青は映っていなかった。

    

男は水賊である。長江を行き来する商人の船を襲い、財貨や荷を奪っている。
「仕事」はめっぽう早く、抵抗する者は無造作に斬り捨てるが、得た財貨は食うのに必要な分だけ取ると、残りはその辺に放り出した。人にも金にも執着がなく、 陸上でいきがることもせず、商船が来ないときはひとり根城にこもって黙然と過ごしている。
残り物にありつく連中は男をたいそうありがたがり、賊の頭に担ぎ上げようとした。だが無愛想で阿諛が効かず、 徒党を組むことも賊の頭になることもまったく興味を示さない男に、やがてあきらめて、ただおこぼれをもらうことに専念するのだった。

   

男は名を周泰という。好んで水賊になったわけでは無いが、今まで他のことで食ったことが無い。
周泰は賊のくせに剣の腕が立った。まだ少年の頃、既に水賊だった周泰が襲った船に用心棒が乗っていた。収穫は得られなかったが、代わりに剣の基礎を教わった。用心棒は周泰の腕に見込みがあると思ったのかもしれないし、更生を期したのかもしれない。残念なことに周泰が水賊をやめることは無かったが、「師匠」が去った後も、剣の稽古は続けた。素質はあったらしく、腕が上がった。腕が上がるにつれ、むやみに人を斬ることは減った。同時に、心中むなしい思いを抱えるようになった。

世は乱世である。とうの昔に漢王朝の威光は薄れ、英傑たちが次々と天下に名乗りを上げている。周泰は自分が英傑になれるとは思っていない。だが、このまま水賊で終わるつもりも毛頭無かった。
剣に関しては自信がある。それを戦場で使いたいと思っている。だが自分のような水賊を兵として採る者などいるはずもない。焦りとあきらめが周泰の心に重く淀み、荒んだ心は、いつしか空の光も江の色も見えなくしていった。

  

だが、そういう者はいたのである。

   

「お前が周泰か」
突然荒ら屋に入ってきた男を、周泰はうさんくさそうに見た。自分と同い年くらいの、荒くれな雰囲気の男である。長い得物を持ち、突っ立ったまま周泰をじろじろ眺め回すと、
「なるほど、少しは腕が立ちそうだな」と独りごちた。

「……誰だ……」
「俺は呂子明。ある人に頼まれて、お前の腕を確かめに来た」
男は言った。「外に出ろ、周泰。俺と打ち合え」
「……なぜだ……」
「その人は自分の軍に入れるために、強い男を捜している。何を隠そうこの俺も、その人に誘われて軍に入るところだ」
男は胸を張った。「この辺の水賊にめっぽう強いやつがいると聞いて立ち寄ったのだ。 さあ、俺と打ち合え、周泰。俺もその人に自分の腕を見せる良い機会だからな」

   

くだらんな、と周泰は思った。だが男の話には興味を引く部分もあった。自分の軍を持っている、そして強い男を捜している。
周泰は立ち上がった。傍らの刀をつかむと、男について荒ら屋を出て行った。

   

外に出ると、やや離れたところに二人の男が立っているのが目に入った。
一人は女と見まごうような美しい顔で、もう一人は覇気満々な様子が遠くからでも見て取れる。
「連れてきました」
男が言い、「ご苦労、呂蒙」と美しい顔の男が答えた。
「君が周泰か。私は周公瑾、こちらは、」
「俺は孫伯符ってんだ」
かぶせるように勢いよく男が名乗り、周公瑾と名乗った男は苦笑した。

   

「呂蒙から聞いたと思うが、我々は今挙兵のための準備を整えている。良ければ君の腕前を披露してもらいたい。そうすれば……」
「周瑜、説明は後でいいだろ。早くこいつの腕を見ようぜ」
「君はせっかちだな、孫策」
周瑜は眉をひそめたが、「そういうわけだ。受けてくれるだろうか」と周泰に向き直った。
周泰は孫策を見た。期待に満ちた瞳がこちらを見返す。どうやら本気で俺の実力を見たいようだと周泰は思った。ならば自分に断る理由は無い。
「……いいだろう……」
周泰はうなずいた。

   

周泰と呂蒙は向かい合って構えた。
「はじめ」
周瑜のかけ声と同時に、呂蒙が打ってかかる。周泰は難なく受けた、つもりだった。だが予想外の衝撃に、思わず足を踏みしめた。
……やるな。
それは周泰が初めて経験する、正式な訓練を受けた男の技だった。
……ならば。
周泰は改めて構え直した。

「顔つきが変わったな」
周瑜がつぶやく。
「ああ、おもしろくなってきたぜ」
孫策が腕組みで答え、
「我流の技では手加減もできぬだろう。早いところで止める必要があるな」
周瑜は そっと得物を握り直した。

   

呂蒙が再び打ってかかる。周泰は慎重に受け、すぐさま打ち返した。間合いを取ろうとする呂蒙にそうはさせじと距離を詰め、鋭い斬撃を見舞う。呂蒙は戟の刃で食い止め、はじき飛ばして突こうとする。周泰は飛びすさった。刀を構え直し、じりじりと間合いを詰める。呂蒙が鋭く突きを出し、それを避けた周泰は大きく迂回して後ろへ回り込もうとしたが、呂蒙は体の向きを変えず戟だけを旋回させ周泰の刀を封じた。

   

激しい打ち合いが続くのを見て、
「二人ともだいぶ熱くなっているようだ」
周瑜はつぶやいた。「呂蒙には抑えるよう言っておいたが、さすがに余裕が無くなっているな。孫策、そろそろ止めたほうが良いと思わないか」
「そうだな。周泰はこういうのに慣れちゃいねえし、呂蒙も加減が出来るほうじゃねえ。このままだと殺し合いになりそうだ」
孫策がうなずく。周瑜は一歩進むと、
「そこまで!」と声を張った。

   

周瑜の声に、呂蒙がはっと動きを止める。だが周泰は止まらなかった。そのまま一気に間合いを詰め、刀を振りかぶり勢いよく叩きつける。
だが刃は呂蒙を斬り割る直前で、鋭い刃音と共に受け止められた。

   

周泰は我に返った。見ると、孫策が間に入り己の武器で周泰の刀を受け止めている。
「 熱くなってるとこ悪ぃが、時間切れだ」
孫策はにやりとした。「 凄えな、周泰。呂蒙は鄧当の軍で鍛えられてるけど、お前のその剣は我流なんだろ?」
周泰は黙って刀を引いた。孫策も武器を納め、
「そんないい腕持ってんのに、水賊で満足しちまうのか? そんな生き方つまんねえだろ。 俺んとこに来いよ、周泰。一緒に天下を取ろうぜ」
周泰の目をまっすぐ見て、熱い声で語りかけた。

   

周泰はわずかな間黙っていた。返事を迷っていたのでは無い。答えは最初から決まっていた。
あきらめかけていたものが思いがけず差し出された。それもこんなに強く気持ちをぶつけられる形で。初めてのことに、一瞬戸惑い、言葉が出なかったのだった。

   

だが周泰がその戸惑いを面に出すことはなかった。
「……行こう……」
短く答え、一歩進み出る。孫策は満足げにうなずき、
「ありがとよ、周泰。じゃあ、早速行くか」
と言うと、先に立ち歩き始めた。

      

「驚いたぞ、周泰。本当に我流なのか」
周泰に並んだ呂蒙が語りかける。
「……がきの頃に、少し習った……」
「そうか。 お前のような強いやつが一緒だと俺も腕が磨ける。俺たちは一緒に訓練を受けることになるだろう。互いに切磋琢磨しようではないか」
嬉しげに話す呂蒙に 黙然とうなずきながら、周泰は周瑜が周りの者に何か指示を出しているのに気がついた。
「あの辺の賊は一掃される。孫策殿は江東の平定を目指しているのだ。民が安心して暮らせるよう、できることから始めているというわけだ」
呂蒙が説明する。その言葉に、周泰はあらためて、自分が賊で無くなったことを知った。

   

歩きながらふと目を上げる。真夏の空はまばゆい光を放っている。目を戻すと、ゆたかに流れる江が目に入った。
周泰はようやく江のいろが見えるようになった。こんなにも青かったのかと思いながら、孫策の後をついて歩いて行った。

                               (おわり)