挨拶回り

「周泰。先ほどのあれは何だ」

    

孫呉の面々に引き合わされたその戻り道。
周泰と並んで歩く呂蒙が、ややとがめるような声を出した。

    

「……あれとは……」
「挨拶だ。 礼儀に関しては俺も人のことは言えんが、 程普殿や韓当殿といった宿将の皆さんに敬語も使わんとは失礼すぎるんじゃないか」
「……そうか……」
「そうかじゃない。あの場は皆が大喬様や小喬様に気を取られて、とがめ立てはされなかったが、本来なら叱責されても致し方ないぞ。これから姫様と孫権殿に挨拶に行く。お二人とも孫策殿のご弟妹だ、礼にかなった挨拶をせんと、くびになるやもしれんぞ」
呂蒙は脅かすが、周泰はまるで表情を変えず、
「……気をつけよう……」
どこか人ごとのように答えた。

   

二人が向かったのは孫尚香のいる調練場だった。
「おお……すごいな」
思わず呂蒙が声を上げる。調練を行っているのは全員女官であった。おのおの武器を手に携え、一糸乱れぬ動きで力強く突きや払いを繰り出している。
「もっと早く! そんなんじゃ敵にやられてしまうわよ」
先頭で勇ましく号令をかけているのが孫尚香だ。
「調練の邪魔をしてはいかん。少し待とう」
しばらく様子を見ていると、二人に気づいた尚香が「稽古やめ!」と声を上げた。女官達は瞬時にぴたりと動きを止め、整然と列を作る。
その様子に感心しながら、呂蒙は周泰を促し、尚香の下へ歩み寄った。

   

「あなた達、新しく来た人たちね?」
孫尚香が気さくに声をかけてくる。
「は、俺は呂子明と申します。以後よろしくお願いします」
先に挨拶を終えた呂蒙が、ちらりと周泰の方を見る。周泰は黙然と拱手し、
「……周幼平……」と名乗った。

   

「(さっきより悪いではないか!)」
呂蒙は冷や汗が止まらない。だが尚香はニコと笑い、
「よろしくね。二人とも強そうな人で安心したわ。今度、私とも手合わせしてね」
きびきび言うと、女官達へ向き直り、
「さ、もう一度やるわよ。始め!」
と威勢良く声をかけた。

     

「俺の話を聞いてなかったのか、周泰」
調練場を出るや否や呂蒙が詰め寄る。
「……聞いていたが……」
「じゃあ何でちゃんと挨拶せんのだ」
「……拱手した……」
「そこも大事だが、まず敬語を使えという話だ」
「……忘れてた……」
「忘れてただと? まったく……」
呂蒙はため息をついた。「いいか、次は孫権殿だ。礼儀作法に大変厳しく、怒らせるとたいそう怖い方だと聞いている。今度こそちゃんと挨拶しないと、その場で首を跳ね飛ばされるやもしれんぞ」
大げさに脅かしてみたが、周泰はどこ吹く風と言った体でうなずくきりだった。

    

孫権は庭にいた。木陰に置かれた椅子に腰掛け、熱心に何か読んでいる。
「失礼します」
呂蒙が声をかけると、孫権は静かに顔を上げた。少しくいぶかしげな表情になり、
「お前達は……?」と尋ねる。
「このたび孫策殿の軍に入れていただきました。俺は呂子明と申します。以後、よろしくお願いします」
呂蒙ははきはきと挨拶した。お手本を見せたつもりであった。促すように隣の周泰を見る。周泰はゆっくりと拱手した。
「……周幼平です……」
頭を下げながら、「……よろしく……孫権様……」と付け足した。

   

「そうか、新しく入った者たちか。私は孫仲謀。孫伯符の弟だ」
朗らかに孫権は言った。「二人とも腕が立ちそうだな。兄上は旗揚げしたばかりで、兵数も多くは無い。どうか兄上の夢の実現のため、力を尽くしてもらいたい」
唇は笑みをたたえていたが、まっすぐ見つめる瞳は存外に力強く、呂蒙は思わず背筋が伸びた。

   

孫権の下を辞した二人は、そのまま帰途についた。
並んで歩きながら、
「やればできるではないか」
ぼそりと呂蒙が言う。
「……何がだ……」
「あいさつだ。二度あることは三度あると危惧していたが、どうやら三度目の正直で済んだようだな」
俺の指導の賜物だと得意げな呂蒙に、周泰は無言である。だが呂蒙は頓着しなかった。周泰の性質は、同時期に軍に入り、共に過ごしてよく知っていた。


「ところで周泰、孫権殿のことを『孫権様』と呼んでいたな。急にどうした」
呂蒙の問いに、周泰は少しく考える。
「……それは……」
「うん?」
「……なんとなくだ……」
「なんとなくか。うーむ、そういうこともあるか」
無精ひげをさすりながら、呂蒙は孫権のことを思い返した。穏やかな表情、柔らかい口調。しかしその瞳は鮮やかで、見られた者が思わず居住まいを正すような光を放っていた。
「(あの目に、周泰を服従させる何かがあったのやもしれんな)」
呂蒙は思ったが、口に出しては言わなかった。

   

「さあ、挨拶回りも済んだ。後は腕を磨いて、戦場でお役に立つばかりだ。頑張ろうな、周泰。孫策殿の天下のために、精一杯務めよう」
威勢良く言う呂蒙に、
「……ああ……」
周泰もまた力強くうなずく。意気軒昂な二人を、夕日が赤く染め上げていた。

                              (おわり)