ある主従の話1

(1)

周泰は料理屋の前にいた。

調練が終わったので飯を食いに来たのである。日頃は軍の食事で済ますことが多いが、毎日だとさすがに飽きるので、時々はこうして街の飯屋に来ていた。

存分に体を動かした後なので、 腹はかなり減っている。手っ取り早く注文しようと口を開きかけたその時、「周泰」と背後から声をかけられた。  

振り返ると主の弟の孫権が立っている。
周泰は無言で礼をした。孫権は笑顔で、
「お前も食事に来たのか。偶然だな、私もだ」 と言う。
「……一人ですか……」
「ああ。朱然と一緒に来るはずだったのだが、朱治から急の用事を言いつけられて行けなくなったと連絡があってな。家の者に食事はいらないと言った後だし、しかたないので一人で来てみたと言うわけだ」
「……そうですか……」
「お前が一緒とは心強い。来てみたはいいが、こういう店で食事をするのは初めてで勝手がわからんのだ。今日はお前にいろいろ教えてもらうとしよう」
そう言うと、孫権は周泰の隣に並んだ。  

   

ずいぶんと人なつこい方だと周泰は思った。
もちろん孫権のことを知らぬわけではないが、日頃の接点がほとんどなく、言葉を交わしたのも数えるほどである。さりとて断る筋合いも無いので、周泰は説明を始めた。

「……ここで、注文をします……」
周泰の言葉に、孫権はうなずき、さっそく店の者に話しかける。
「この店のおすすめを教えてくれ。なるほど、肉の炙りか。これは何だ? こっちのは? では……」
いろいろ聞きながら一通り注文したあと、周泰を振り返り、
「お前のお気に入りはなんだ?」
と尋ねてきた。
「……魚の蒸し焼きです……」
「そうか。ではそれも頼もう。他にはないか? 今日は私が持つから、遠慮無く頼むといい」
「……いえ……」
「遠慮するな。授業料だ。ほら、早く頼まんと、私の分ができてしまうぞ」
有無を言わせぬ調子でせっついてくる。しかたないので周泰は注文した。予定の品数を言ったが、孫権は納得せず、
「それだけか? もっと食えるだろう。ほら、これもうまそうだぞ」
と言った調子で、さらにいくつか追加させられた。

   

やがてできあがった数々の料理を持って、二人は空いている卓についた。
「おお、どれもうまそうだな」
上機嫌で料理を眺めている孫権に、
「……酒は、よろしいのですか……」
周泰は尋ねた。孫権は少々気まずそうな顔になり、
「ああ、いや、外では控えている。飲み方がわかるまで家で飲むよう兄上に言われたのだ」 と答えた。

冷めてはいかんということで、二人はさっそく食べ始めた。
「うまいな。あつものも炒め物もどれもいい。お前の好物の魚も良い火加減だ」
周泰が頼んだ皿にも箸をつけた孫権は、周泰にも同じようにするよう勧めた。
「お前の体で私より小食ということはなかろう。遠慮せずにどんどん食べろ」
周泰は従うことにした。すべての皿は孫権の箸がついている。主の弟だからといって遠慮していては何も食べられない。そして周泰の空ききった腹はそんな遠慮を許さなかった。

   

二人はしばらく食事に没頭した。やがて箸が一巡したところで、
「そういえば、お前と差し向かいで話すのは初めてだな」
と孫権が話しかけてきた。
「どうだ、兄上の軍は? もう慣れたか?」
「……はい……」
「お前はずいぶんと腕が立つらしいな。ここに来る前はどこか他の軍に入っていたのか?」
「……いえ……」
周泰は緩やかに首を振った。主は何も話していないのかと思いながら、
「……水賊を、しておりました……」
いつもの無表情で、淡々と答えた。

   

周泰の言葉に、孫権はさほど驚いたふうでもなかった。
「水賊か。その顔の傷も、そのときについたのか?」
「……はい……」
「なるほど。それは肝も据わっているはずだ。兄上が直々に迎えに行ったというから、よほど強い男なのだろうと思っていたが、なるほど予想に違わぬといったところだな」
「……そのような……」
「謙遜するな。黄蓋から聞いたが、初日から調練場で大暴れしたそうではないか。 武技に関してはもはや教えることが無いと黄蓋は言っていたぞ」

周泰はなんと答えてよいかわからなかった。当てこすりで無いことはわかるが、なにぶん水賊上がりで語彙が少なく、適当な言葉が思い浮かばない。
黙っている周泰を見て、孫権はニコと笑った。
「嫌みでは無いぞ。むしろうらやましいと思っているのだ。私は……」
そこでふいと言葉を切ると、店の入口に顔を向けた。

    

周泰も孫権の見る方へ顔を向けた。柄の悪い男が二人、店頭の肉の串焼きや胡餅などをめいめい勝手につかんでいる。
「あの、お代を払ってください」
店の女が困り顔で言うが、男たちは従うどころか、
「金なんかねえよ。どこもかしこも戦で荒れちまって、稼ぎ口なんかどこにもねえしな」
「俺らを哀れだと思って恵んでくれよ。ついでに売り上げも少しくれねえかな。見たとこずいぶん稼いでるみたいだし、慈善だと思ってよ」
などと口々に言いながら、女が立つ売り場の中にずかずかと入ってきた。

   

周泰は孫権の顔を見た。視線に気づいた孫権が目を戻す。強い光を放つ瞳が周泰をまっすぐに捉えた。

   

周泰は立ち上がった。男たちに大股に歩み寄ると、後ろ襟をつかんで引きずり戻し、店の外に放り出す。
投げ出された男たちは勢いよく地面に転がった。

「何しやがる!」
「……飯の邪魔だ……」
「てめえ、なめた真似すんじゃねえぞ!」
「ぶっ殺されてえか!」
立ち上がってわめく二人に、
「……やるか……」
低く言うと、周泰は一歩前に出る。

向かってきたら遠慮無くぶん殴るつもりだったが、どうやらその気が伝わったらしく、男たちは急に怯んで後ずさりした。顔を見合わせたかと思うと、「覚えてろ!」と捨て台詞を吐いて走り去る。去り際に肉の串を拾っていくのは忘れなかった。

   

「……食い逃げか……」
苦々しくつぶやく周泰に、
「いえ、いいんです。どうもありがとうございました」
と店の女が礼を言った。
「最近はああいう人が多くて、困っていたんです。助かりました」
「……いや……」
周泰は首を振った。孫権の方を示しながら、
「……礼なら、この方へ……」と続けた。

示された孫権がきょとんとする。
「私は何もしていないぞ」
「……指示を、出されました……」
「指示?」
「……はい……」

周泰はうなずいた。周泰はもともと他人に関心が無い男である。目の前でもめ事が起こっていても、己に害が及ばぬ限り、知らぬ顔をするのが常である。
だが孫権の瞳は周泰にこの場を納めろと言っていた。その瞳に押されるように、周泰は立ったのだった。

「そんなつもりはなかったが……まあいい。とりあえず、あいつらが持って行った食べ物の金は私が払おう」
孫権はそう言うと、恐縮する女に無理矢理金を握らせた。そして、
「さあ、急いで残りを食べてしまおう。ちょっと冷めてしまった」
と周泰を促し、食事の続きに戻った。

  

(2)

食事が終わり、店を出た二人は往来を歩いていた。

初夏の日は長く、空は夕焼けの名残の赤に染まっている。
ゆっくりと歩きながら、
「周泰、先ほどは私の顔を立ててくれてありがとう」
と孫権が言った。
「兄上なら、ああいう連中は自ら倒してしまうだろう。だが、私は何もできなかった。お前が行ってくれて本当に助かったと思っている。それだけでなく、店の者に私の指示とまで言ってくれた。いらぬ気を遣わせてしまったな」

「……俺は……孫権様の指示で、動きました……」
不可解な気持ちで周泰は言った。直接言葉では示されなかったが、孫権の指示で動いたという確信は揺るがない。それを孫権が否定する理由がわからなかった。
「……そうか」
孫権は周泰を見上げた。
「お前には悪いが、本当に指示したつもりは無いのだ。だが、その気持ちはありがたく受け取っておこう」
そう言って小さくほほえむと、視線を外し、前を向いた。

   

いろいろと思うところはあったが、 ひとまず周泰は考えを脇に置いた。今度こそ明確に孫権の指示を仰ぐ必要が生じたからである。
「……孫権様……」
「何だ」
「……次は、どうしますか……」
ちらと背後に目を走らせながら問うと、
「そうだな。次は私が行ってみよう」
朗らかに言い、孫権はくるりと振り返った。

   

後をつけていた先ほどの男たちが、不意を突かれた顔をする。
「私たちに何か用か?」
「お、お前じゃねえ。そっちのでかいやつに用がある」
「だろうな。だが、私の方でお前たちに用がある」
孫権は言った。
「お前たちが食い逃げした肉の代金だが、私が立て替えておいた。それを返してもらおうと思ってな」       

孫権の言葉に、男たちはいきりたった。
「知らねえよ、そんなこと。そっちが勝手に払ったんじゃねえか」
「そうだ。それに払えって言っても、俺たちゃ、金なんか全然持ってねえんだからな」
「偉そうに言うことじゃないだろう」
孫権はあきれ顔で言った。二人の顔を交互に見ながら、
「まあ、食い逃げするくらいだから金が無いことはわかる。今すぐ払えとは言わん。仕事を紹介してやるから、その稼ぎから返すというのはどうだ」
と持ちかけた。

「仕事?」
「そうだ。お前たちみたいに金は無いが力を持て余している者に、ちょうど良い仕事がある。私の兄の軍に入ることだ。言い忘れていたが、私の兄は孫伯符だ。お前たちも名前くらい聞いたことはあるだろう」

   

「そ、孫伯符? ってあの、小覇王の? 」
男たちは仰天する。孫権は大きくうなずいた。
「そうだ。私はその弟の孫仲謀だ。採用の保証は無いが、口利きくらいはしてやれるぞ」
「あんたが、小覇王の弟……」
二人は顔を見合わせた。
「お、俺たちみたいなごろつきを、本当に軍に入れてくれるのか?」
「戦の経験とかねえんだけど……」
「心配するな。採否は兄上か周瑜が決めるが、出自や経験で選別はせん。ちなみにこの男も、市井から兄上が取り立てたのだ」
「えっ、兄貴も? すげえ……」
にわかに尊敬の眼で見られ、周泰は苦り切った。

   

「さて、どうする?」
孫権の問いに、 男たちは一も二もなくうなずく。
「そりゃもちろん、連れてってください」
「俺たちも小覇王の軍に入りてえ。是非お願いします」
「よし、決まりだな。ではついてこい」
孫権がうなずき、男たちは大はしゃぎで後をついて歩き始めた。

「……良いのですか……」
念のため周泰は尋ねた。
「もちろんだ。人手はいくらあっても困らんからな」
孫権はうなずき、 それに、と言葉を継ぐ。
「戦続きで故郷は荒れ果て、仕事も無い……そういう者に職を与え、まっとうな暮らしをさせるのも、我々のつとめだと思うのだ」
まじめな顔で、独りごちるように言った。

     

その言葉に、周泰は、孫策が帰順を促しに訪れたときのことを思い出した。
「そんないい腕持ってんのに、水賊で満足しちまうのか? そんな生き方つまんねえだろ」
あのときの自分と同じ気持ちを、おそらくはこの者たちも感じている。

   

……おもしろい人だ、と周泰は思った。
まだ若いが人を使う術に長けている。あっという間にごろつきの心をつかんでしまった。兄とやり方は違うが、この人も間違いなく孫家の男なのだ。
見かけは似ていないがやはり兄弟か、と思いながら歩いていると、
「ところで、こいつらだが……」
孫権が笑みを含んだ声で話しかけてきた。
「黄蓋から聞いたが、お前は次の出陣から兵を持てるそうだ。こいつらをお前の配下にしたらどうだ。鍛えがいがありそうだぞ」
「……結構です……」
渋い顔の周泰に、それはねえぜ兄貴、俺たちだって役に立ちますぜと後ろで男たちがやいやい言う。

「……兄貴と呼ぶな……」
笑いをこらえている孫権を恨めしく思いながら、周泰はむっつりと歩を進めた。

   

(3)

それから間もなく、周泰は孫策から、次の出陣で兵を持つことを告げられた。

「実は、お前にはもう一つ話があるんだ」
孫策は笑顔で言葉を続ける。
「周泰、権と一緒に飯食ったんだって? あいつ、お前のことえらく気に入ったみたいで、自分の配下につけたいってよ。どうする? お前さえ良けりゃそうしたいんだが……」

「……わかりました……」
周泰は答えた。孫策は嬉しそうな顔になり、
「ありがとよ、周泰。権が何かを欲しがるなんて滅多に無いから、かなえてやりたかったんだ」
と言った。

「とはいえ、正直、権は戦じゃまだ頼りねえ。頼んだぜ、周泰。権を支えてやってくれ」
「……御意……」
「それから、こないだ権が連れてきた奴らも採用したぜ。いつものように、黄蓋が鍛える予定だ」
言いながら孫策がにやりと笑う。 「で、その後は、お前の配下につける。これも権からのお願いだ」

「…………」
「そんな顔すんなよ。そうすりゃ権もそいつらの様子がわかるだろ。そういうとこがあんだよ、権は」
「……はあ……」
「心配すんな、黄蓋が連中は筋は悪くねえってさ。じゃあ、早速で悪いが権のとこに行ってくれ。具体的な話はあいつがするからよ」
そう言って、孫策は周泰を下がらせた。

    

孫権の室に向かいながら、俺が主の弟付きになるとは、と周泰は思った。
いくら孫権が望んだとはいえ、水賊上がりの自分を付けるとは、主も思いきったことをする。だがそれが孫策という男であることを、周泰は知っていた。

予想外の展開だが、悲観も期待も特にない。 周泰は常に現実を受け入れる。淡々としながらも、決して悪い気分ではない自分に気がついた。

   

……それにしても、俺のどこが気に入ったのか。
まったくわからんと思いながら、周泰は歩いて行った。

                               (おわり)